今年の5月号に「認知症1000万人時代」に対応できる連帯協働社会を創ろうと書きましたが、いま認知症問題は、新聞・テレビで見ない日がないくらい社会的な関心を集めています。そして、昨年には「G8認知症サミット」がロンドンで開催されるなどすでに国際的問題になっています。日本では、予防をテーマにした話題が多く、いわゆる団塊の世代をはじめ多くの人々が、できれば認知症になりたくない、認知症で家族に迷惑をかけたくない、という率直な思いを抱いているのだと思います。
認知症の訪問診療で有名な精神科の先生によると、認知症は「いったん正常に発達した知的機能が、持続的に低下して、社会生活に支障をきたすようになった『状態』」であり、「最初から十分に知的機能が発達しなかった場合、知的障害と呼びます」という解説をされています。また、認知症状態をつくりだすのはアルツハイマー病など主に3疾病ですが、他も含めると原因疾病は70を超えるそうです。であるならば、やや乱暴かもしれませんが、認知症そのものは病気ではなく、言わば「中途(知的)障害」だと言えないでしょうか。障害者施策の分野では、中途失明など人生の途中で障害を受けた人の場合、本人や周囲にとって障害の受容が大きなテーマとなり、その後の人生に大きな影響を与えることは皆が知るところですが、それは、認知症の場合も同じだと思うのです。
人生の途中で「知的機能が持続的に低下していく」現実を、受け入れ難くも受け入れていく、ある種の楽観とも達観ともいうべき覚悟を育み合い、支え合える関係こそ、認知症1000万人時代が求めるソーシャルキャピタルだと思うのです。知的機能の低下は言わば老化現象の一つであり、身体機能の低下を受容するプロセス同様に相当の困難を伴うかもしれませんが、「老い支度?完了。認知症?ケセラセラ」と言える社会になれば素敵です。もちろん、予防や健康寿命も大切ですが、老化は誰にも止められないのです。受容支援なき対策は、認知症への恐怖心を不必要に煽ってしまい、現下の優生思想もあいまって、忌避や排除意識を生み出したり、時には認知症となった自らをも否定してしまうダークな社会をつくり出しかねません。だからこそ認知症を受容(包摂)していく市民感覚や行動を育んでいくことが大切で、それは究極のところ、違いを認め合える社会を不断の努力によって創るほかないのです。
いま当法人では、住まい支援機能を中核に「(仮称)認知症高齢者総合支援センター」建設構想をまとめていますが、その重要な機能の1つに、受容への伴走を位置づけています。英国・スコットランドのリンクワーカー政策などにも学びながら、「いつ認知症になってもいいよ」というメッセージを感じる地域社会を創るためにも、「まずは受容(包摂)」にこだわるのです。これこそが、認知症1000万人時代をより豊かな連帯協働社会へと導いていく確かな試金石になると確信している暑い夏です。